Masuk長い、果てしなく長い午後だった。
分家の人間である龍一郎さんと剣吾さん、そして彼らに寝返った役員たちが去った後、本邸の客間には、耳鳴りがするほどの重い沈黙が降り積もっていた。 志保さんは、華枝様の容態が心配だと言って、足を引きずるようにして再び病院へと戻っていった。 私は一人、客間のアンティークソファに座り、ただ時間が過ぎるのを待っていた。 窓の外の景色は、鮮やかな春の陽射しから、少しずつ赤みを帯びた夕暮れの色へと変わり、やがて群青色の夜の帳が静かに降りてこようとしている。 暖房は効いているはずなのに、指先から冷えが這い上がってくるような感覚が抜けなかった。 書斎の分厚いオーク材の扉は、あの時閉ざされたまま、一度も開いていない。 扉の向こうからは、物音一つ聞こえてこなかった。 湊は、たった一人で、暗闇の中でどんな思考を巡らせているのだろうか。 あの時、彼が「新しい戦略を構築し直すための時間が欲しい」と言った言葉を信じ、私はただ待つことしかできない。下手に声をかけて彼の思考朝の光が、本邸のダイニングの大きな窓から差し込んでいる。 テーブルに置かれた真っ白な磁器のカップから、淹れたてのコーヒーの香ばしい湯気が立ち昇っていた。 カリッ、とトーストを囓る小さな音が響く。 テーブルの向かい側では、湊がタブレットに視線を落としながら、静かにブラックコーヒーを口に運んでいた。 シャツの袖が軽く捲り上げられ、日差しに照らされた前腕の筋肉の筋が浮かび上がっている。「……今日のスケジュールは、午後に一件、リモートでの役員会議があるだけだ」 タブレットをスクロールする指を止め、湊が顔を上げる。「朱里の方は? サロンに出るんだったな」「ええ。午後から新規のお客様の打ち合わせが入っているの。……久しぶりの現場だから、少し緊張するわ」 マグカップを両手で包み込みながら答える。陶器の温もりが、手のひらからじんわりと伝わってくる。「君なら問題ないだろう。あの記者会見で堂々と立ち回ったんだ、どんなクレーム客よりも余裕で捌けるはずだ」 湊の口角がわずかに上がり、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。「もう、からかわないでよ。あの時は無我夢中だったんだから」「からかってなどいないさ。事実を言ったまでだ」 穏やかな朝の空気が、部屋を満たしている。 そこへ、廊下からカツン、カツンという規則正しいヒールの音が近づいてきた。 ダイニングのアーチをくぐり抜けて現れたのは、タイトなネイビースーツに身を包んだ詩織だった。 手には、お馴染みの分厚いレザーのバインダーが抱えられている。「おはよう、二人とも。……朝食の邪魔をして悪いわね」 詩織は中指で眼鏡のブリッジを押し上げながら、テーブルの空いている席へと歩み寄った。「構わない。何か急ぎの報告か」 湊がタブレットをスリープ状態にし、姿勢を正す。「ええ。……というより、これで最後の一区切りね」 詩織はバインダーを開き、数枚の書類をテーブルの上に並べた。
ボールペンを手に握らせる。「この紙は、私たちがどれだけ不器用だったかっていう『記録』よ。……破ってなかったことにするんじゃなくて、この続きに、新しい未来の約束を上書きしたいの」 握らされたボールペンと、顔が交互に見つめられる。 やがて、その喉の奥から、クックッと低い笑い声が漏れ出した。 笑い声は次第に大きくなり、肩を揺らして本気で笑い始めた。 出会ってから、こんなに声を出して笑うのを見るのは初めてだった。「……ははっ、敵わないな。法務部も真っ青の契約変更だ」 目尻にわずかに浮かんだ涙が指先で拭われ、ローテーブルに契約書が置き直された。 そして、ボールペンが握られ、指差した余白部分に、力強い文字が書き込まれ始める。 走るペン先の音が、静かな部屋に心地よく響く。『第四条 本契約は無期限とし、甲と乙は生涯にわたり互いを愛し、敬い、共に歩むことを誓う』 カチリ、とボールペンを置く音がした。「これでいいか?」 書き足されたその一行を見つめる。 インクの新しい匂いが、鼻腔をくすぐった。 いかにも彼らしい、硬い言葉選び。でも、そこに込められた熱量は、どんな甘い言葉よりも深く胸の奥へと染み込んでくる。「……ええ。完璧よ」 ペンを取り、その下に小さくイニシャルを書き加えた。 契約書が丁寧に四つ折りにされ、再びジャケットの内ポケットへと大切そうにしまわれる。「……この更新された契約書は、僕が死ぬまで持ち歩くことにする」 湊の眼差しは、真剣そのものだった。「スーツを変える時は、忘れないで移し替えてね」「ああ、約束する。生涯、肌身離さず持っていよう」 手が、頬にそっと添えられる。 少しひんやりとした指先が、肌を滑る。 視線が絡み合い、互いの呼吸が混ざり合う距離まで顔が近づく。「……朱里」「なあに?」「愛している。&
ローテーブルの前に歩み寄り、その契約書を見下ろす。 たった数ヶ月前のことなのに、まるで遠い昔の出来事のように感じられた。 相手の素性もよく分からず、ただ見栄を張りたいという目的から始まった、書類上の繋がり。「……今見ると、本当に冷たい文面ね。感情の欠片もないわ」「僕が作成させたものだからな。法務の人間が書くような、血の通っていないただの契約だ」 湊が、ソファの背もたれに手をつき、契約書を見下ろしながら自嘲気味に口角を上げた。「この契約書で、君の自由を奪った。君が危険な目に遭うと分かっていながら、巻き込んでしまった。……あの日、君がこの紙にサインをした時、君の指先が震えていたのを覚えている。僕はそれを都合よく利用したんだ」 湊の漆黒の瞳が、痛みを堪えるようにわずかに細められる。「……湊」 ローテーブルを回り込み、湊の正面に立つ。 視線を真っ直ぐに絡め合わせる。「確かに、最初はそうだったかもしれない。月額三百万円というお金が絡んでいたのも、見栄を張るためにあなたを利用したのも事実よ」 湊の大きな手が、ソファの背もたれを強く握りしめているのが見えた。指の関節が白くなっている。 その手に、自分の手をそっと重ねた。「でも、この契約書があったから、私たちは同じ家で暮らし、同じ食卓を囲み、互いの本当の顔を知ることができた。……あなたがどれだけ不器用で、優しい人なのかを」 重ねた手に力を込めると、強張っていた指先が、わずかに緩んだ。「この紙切れは、私にとって『鎖』じゃなかった。……足元が崩れ落ちそうになっていた私に、あなたが差し出してくれた『命綱』だったのよ」 息を呑む音が、静かな空間に落ちた。「……朱里」「記者会見でも言ったでしょう。私は、過去の愚かな自分を否定しない。……この契約書があったから、今の私たちがいる。この事実を、私は誇りに思うわ」
耳がわずかにツンとするほどの速度で上昇していく密室の中、湊の視線がずっとこちらに向けられているのを感じていた。「……何? 顔に何か付いてる?」「いや。……麗華の言う通り、これ以上のドレスはないと思って見惚れていただけだ。その色、君の肌によく似合っている」 耳の奥がカッと熱くなる。 真っ直ぐすぎる言葉に、どう返していいか分からず、ただ視線を足元の絨毯へと逸らした。 ピン、という電子音が鳴り、エレベーターの扉が開く。 毛足の長いフカフカの絨毯が敷き詰められた廊下を歩き、一番奥の重厚な木製のドアの前に立つ。 湊がカードキーをかざすと、カチャリという軽い金属音が鳴り、ロックが解除された。 ドアを開け、一歩足を踏み入れる。 室内の照明は落とされており、壁一面の巨大な窓ガラスいっぱいに、東京の夜景が宝石箱をひっくり返したように広がっていた。 赤や黄色のテールランプが、動く光の川となって首都高を流れている。「わあ……」 思わず声が漏れる。 靴を脱ぐのも忘れ、窓際へと歩み寄る。 足元の絨毯がハイヒールの音を吸い込み、静寂だけが部屋を支配していた。 ガラスに額が触れそうなくらい近づくと、眼下に広がる途方もない光の粒に、吸い込まれそうな錯覚を覚える。「……あの日も、この景色を見たわね」 窓ガラスに反射する自身の姿。ミッドナイトブルーの生地が、夜の闇に溶け込むように同化している。「ああ。君はあの時、この窓際で肩を震わせていたね」 背後から、低い声が降ってくる。 振り返ると、湊が上着を脱ぎ、ネクタイを外し終わったところだった。 第一ボタンを外した白いシャツの胸元から、鎖骨の硬いラインが覗いている。 湊は、窓際から数歩離れたリビングスペースのローテーブルへと歩み寄った。 そして、脱いだばかりのジャケットの内ポケットに手を差し込む。 ガサリ、と。 静かな部屋に、少し古びた紙が擦れる
真っ白に弾けるフラッシュの波が、網膜の裏側に焼き付いては消えていく。 カシャカシャという硬質なシャッター音が、幾重にも重なって鼓膜を打ち据える。 無数のレンズの放列の前に立ち、ミッドナイトブルーのシルクドレスの裾をわずかに引いて姿勢を正す。隣に立つ濃紺のスーツの袖が軽く触れ、そこから伝わる岩のような硬い熱が、背筋を真っ直ぐに支えていた。 飛び交う無遠慮な声や、好奇の視線。だが、そこに張り詰めたような焦燥はもうない。 肺の奥までゆっくりと空気を吸い込み、口角を上げてカメラの光を真っ向から受け止めた。 ◇ メインホールの喧騒を抜け、地下駐車場で待機していたハイヤーの後部座席に滑り込む。 重厚なドアがバタンと閉まり、外界の騒音が分厚いガラスの向こう側へと完全に遮断された。 革張りのシート特有の、少し甘く沈むような匂い。 深く息を吐き出すと、ピンと張り詰めていた肩の筋肉が、じんわりと熱を持ちながら緩んでいくのがわかった。 隣に座る湊もまた、ネクタイの結び目をわずかに緩め、深くシートに背中を預けていた。 街灯のオレンジ色の光が、一定の間隔で車内を横切り、彫りの深い横顔に陰影を落としては消えていく。「……お疲れ様。見事な立ち回りだった」 低い、少しだけ掠れた声が車内の静寂に溶ける。「湊こそ。……あんな風に、自分で全部被るようなこと言うなんて反則よ。本当に、心臓が止まるかと思ったんだから」「事実を述べたまでだ。僕が強引に巻き込んだ。……あの契約を持ちかけたのは、間違いなく僕なのだから」 湊の大きな手が、シートの上でそっとこちらの手に重なる。 指を絡ませると、少しだけ体温が上がったような気がした。 流れる窓の外の景色を見る。 見慣れた高層ビル群のネオンが、冬の澄んだ空気の中でチカチカと瞬いている。 車は本邸がある方向とは違う、都心の中心部へと滑るように走っていた。「……本邸には、もう戻らなくていいの?」
廊下の壁に背を預けていた湊が、扉の開く音に気づいて顔を上げた。 視線がぶつかる。 湊の動きが、完全に止まった。 少しだけ壁から背中を離し、息を呑むような微かな音が、静寂の廊下に落ちる。 その漆黒の瞳が、ドレスの裾からウエスト、そして顔へとゆっくりと上がってくる。 瞬きすら忘れ、ただ一点を見つめるその眼差しには、隠しきれない熱と、圧倒されたような驚きが混じっていた。「……どうかしら」 一歩踏み出し、ドレスの裾をわずかに翻す。 湊は数秒の沈黙の後、深く息を吐き出し、そして柔らかく、ひどく甘い弧を唇に描いた。「……言葉にならない。ただ、これ以上の『王妃』は、世界中のどこを探しても見つからないと確信したよ」 湊が歩み寄り、差し出された大きな手が、ドレスの袖口から覗く手首をそっと包み込む。 親指の腹が脈打つ部分をなぞり、そこから流れ込んでくる熱が、ミッドナイトブルーの戦闘服にさらなる命を吹き込んでいくのを感じた。「ふん。当然よ。私の最高傑作なんだから。……さあ、さっさと行きなさい。あんたたちの顔を見てたら、こっちまで胃がもたれてきそう」 控室の入り口で、麗華が腕を組みながら呆れたようにため息をついた。「麗華さん、本当にありがとう」「感謝の言葉より、次期コレクションのスポンサー料を弾むよう、そこのCEOに言っておいてちょうだい」 麗華はヒールを鳴らし、振り返ることなく廊下の奥へと歩き去っていった。 真紅の背中が、角を曲がって見えなくなるまで、その足音は誇り高く響き続けていた。 廊下には、再び二人の時間と静寂が戻った。 湊の指が、手首からゆっくりと滑り落ち、指の間に深く絡み合ってくる。 関節同士が隙間なく噛み合い、岩のように硬く温かい感触が手のひらを満たした。「……行こうか。世界中の誰よりも美しい、僕の本当の妻を、彼らにお披露目する時間だ」 湊のエスコートで、再び
見覚えのない、上質な和紙の封筒だ。 拾い上げ、裏返す。 封蝋の代わりに貼られたシールの端に、見慣れた、しかし見たくもない筆跡で、小さくイニシャルが記されていた。『S.K』 志保・九龍(Shiho Kuryu)。 継母だ。 なぜ、志保からの封筒がここに? やはり、朱里は志保と繋がっていたのか。 背筋が凍りつく。指先が震えた。 中を見てしまえば、僕たちの関係が本当に終わってしまう気がした。だが、見ないわけにはいかない。 僕は意を決して、封を開けた。 中から滑り
完全に炭化した紙の残骸が、ボロボロと音を立ててクリスタル製の灰皿へ崩れ落ちていく。 カチャリ、と小気味よい音を立てて、湊の手の中でシルバーのジッポライターの蓋が閉じられた。 オレンジ色の炎が消えた直後の、焦げたインクと紙の匂いが、ホテルの控室にふわりと漂う。空調の微かな風に乗って、黒い灰の欠片が一つ、ガラステーブルの上へ舞い落ちた。 私は湊の胸元に寄りかかったまま、その小さな黒い染みのような灰をじっと見つめていた。 終わったのだ。 剛造が会場でばら撒いた『婚約者業務委託契約書』。私と湊を繋ぎ止め、同時に縛り付けていた絶対的な免
視線の高さが同じになり、黒曜石のような真っ直ぐな瞳が、至近距離で私を射抜く。 その目には、深い後悔と、隠しきれないほどの痛切な熱が満ちていた。「……志保からの手紙と、君の残したメモを読んだ」 その言葉に、私はハッと息を呑んだ。「君が僕を守るために、どれほどのものを一人で背負おうとしてくれたか。……それを知って、僕は自分がどれだけ愚かで、傲慢だったか思い知らされたよ」 湊は、私の手を握る力を少しだけ強めた。「君を遠ざければ守れるだなんて…&hell
彼はスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイも外し、シャツの第一ボタンを開けた少し無防備な姿で、膝の上で組んだ両手をじっと見つめている。 前髪が少し乱れて額にかかり、その横顔には深い疲労の色が滲んでいた。 私が微かに身じろぎをした音に気づき、湊が弾かれたように顔を上げる。「……気がついたか」 掠れた、低い声だった。「湊……」 身体を起こそうとすると、彼がすぐに椅子から立ち上がり、私の背中に手を差し伸べてくれた。 大きな掌の熱が、ブラウス越しにじんわりと伝







